JUNK WORLD

■文


次のうしおは、『最初』に一番近い姿をしていた。
見たこともない本を媒介にして呼ばれた妖怪は、目の前に立っている少年に目を向ける。
何度も繰り返される生涯の中で、ほとんど形を変えたことのない妖怪ではあったが、今回は少し様子が違っていた。
少年の視線が遠い。どうやら、自分の身体が小さく縮んでいるらしい。掌を広げてみる。小さな子供のようなそれに、あるはずもない血の残像を見て、妖怪は背を戦慄かせた。

「あぁ・・・、驚いた」

本を片手に持ったまま、少年が口を開く。見上げた先で、ようやく少年が表情らしきものをその顔に浮かべた。

「『前世』なんてモンは、本当にあるんだな」
「お前、覚えているのか・・・?」

目を丸くして、妖怪は身を乗り出した。妖怪の前にかがみこんだ少年は、無邪気に微笑んだ。

「ああ。きっちり覚えてるぜ。・・・・『ミカガミサマ』」

少年の呼んだ名前に、妖怪は愕然とした。その名前は、『ひとつ前』のものだ。何度も繰り返してきた内の、途中の一つに過ぎない。

「お前は、うしおじゃねぇのか・・・・」
「いいや。俺の名前はうしおだぜ。オメーは今回のこの世界を見越して、そう呼んでたんだなぁ」
「違う」
「違う?どう違う?俺の覚えているお前は、俺をいつも『うしお』って呼んでたぜ?」

違う。自分は『最初』のうしおを呼んでいたのだ。『今』のうしおではない。
妖怪の欲しいうしおは違う。陰陽師でも、神父でも、巫女でもない。ただの人間の子供だ。妖怪に仇を為す槍を携えた、いけ好かない人間の子供だ。

「まぁ、いいや。とりあえずよろしくな。御鏡様が嫌なら、そのうち適当な名前付けてやるよ」

妖怪の小さくなった頭をくしゃりと撫でて、少年が立ち上がる。石の壁に張り付いている大きな本棚に、今まで抱えていた本を押し込み、少年は部屋の扉を開ける。
振り向き、少年はついて来いよ、と微笑んだ。大きな黒い両目には、妖怪に対する憎悪も怯えもない。
妖怪は言われるがまま、ふらりと立ち上がる。少年は笑った。無邪気な顔だ。まるっきり、普通の子供だ。
ああ。何が違う。
これはうしおだ。間違いない。
うしおの名前も、魂も同じだ。
何も違わない。
床を蹴ると、ふわりとした浮遊感が自分を包んだ。少年の視線が、それに従って上に移動する。
ああ。間違いない。
満足そうに目を細める少年は、確かに『うしお』だ。

今回のうしおは、本当に最初のうしおと良く似ていた。最初の記憶こそ保持していないが、妖怪のことを『とら』と呼ぶ。
『御鏡様』から呼び名を変えろと迫ったとき、何が良いのかと逆に問われたので、妖怪が自分で申告した。少年は妖怪の拘りように少し不思議そうにしながらも承諾し、それ以来、妖怪のことをあの名前で呼ぶようになった。
何度も繰り返す輪廻の中で、うしおがただの人間であったことはない。今回の彼も、人の世からは逸脱した場所に生きていた。
妖怪のような人外のものを使役し、他者を制圧する。少年の標的は日によって様々だった。
極悪人と呼ばれる人間も、政府の要人も、人ならざる者も関係ない。条件と報酬さえ良ければ、少年は特に何のこだわりもなく、仕事を引き受けた。
ゲーム機やら、漫画やら、よく解からない機器が雑然と置かれた部屋で、少年はソファーに寝そべって携帯を弄っていた。
明かりも点けないままの部屋を灯すのは、つけっ放しのテレビと、携帯のバックライトだけだ。
その青白い光に照らされた少年の顔が、ふと、妖怪に向けられる。

「とら」
「何だ」
「次の仕事だ」
「どんな」

妖怪はテレビに目を向けたまま、気のない返事を返す。少年はようやくソファーから起き上がり、足元のゴミを蹴り分けながら近づいてきた。
少年には、親がいなかった。家族の話もしない。特に興味もなかったので、聞いてもいない。

「今回のは、ちょっと厄介だぜ」

妖怪の後ろに腰を下ろし、小さな頭に顎を乗せる。妖怪が不快そうに身を捩ると、少年の腕と足が後ろから絡みついてきた。
家族を持たない少年は、時折こうして妖怪に甘えるような仕草をした。妖怪には人間のことなどわからないが、これは少年なりの、人恋しいだとか、肌寒いと言う感情の表れなのかもしれない。
少年の顎を頭に乗せたまま、妖怪は与えられたスナック菓子を頬張る。それを一枚拝借して、少年はまた携帯を取り出した。
掌に収まる程度の四角い画面が、目の前にぶら下げられる。
そこに映し出された女の姿に、妖怪は目をむいた。

「知ってるのか?・・・ああ、もしかして、この人も『前世』にいたとか?」

驚いて動きを止めた妖怪を上から覗き込んで、少年が口を歪める。いびつな笑い方。笑っているのに、目だけが暗い。
『最初』のうしおなら、決してしない笑い方だ。

「・・・・マユコ」
「そう。井上真由子。『前』はどうだったか覚えがねーけど、『今』はスゲー力を持ってるんだ」

携帯の画面が目の前から消える。釣られるように上を見上げると、少年の顔からは一切の表情が消えていた。

「解かるだろ、とら。こういうヤツがいるとさ、俺らの仕事がやりづらくなるんだ」
「マユコを、どうする」
「何を今更。殺せよ」

息が詰まった。ぬいぐるみのように自分を抱いているうしおの顔をした少年が、冷たく吐き捨てた。
『今』の世界で目覚めて、何度も聞いた声だった。この顔も、何度も見た顔だった。
暗い眼をした少年は、なんの躊躇いもなく人を殺す。自分が生きるための手段だ。特殊な力と環境の中で生きてきた少年は、それしか手段を持ち合わせていない。
生きるために、他者を屠る。それに異を唱えるつもりはない。けれど。
けれど。違う。
ああ。やはり。
違う。これはうしおではない。
絶望に押しつぶされるようだった。ようやく終わりが巡ってきたと思っていたのに。それは単なる幻想で、自分は今まで、この差異に目を反らし続けてきただけのことだったのだ。
茫然と見上げる妖怪に、少年はようやく微笑んだ。携帯電話のディスプレイに指先を滑らせる。同時に、首元に焦げるような痛みが走った。
発光するディスプレイに映し出されたものと、同じ印が妖怪の首に浮かび上がる。
少年は笑った。無邪気な顔だった。

「契約、したよな?・・・とら」

ああ。もう手遅れだ。
少年の契約に応じ、この身に呪いを受けた瞬間から、妖怪に抗う術などないのだ。

少年が許可をすると、妖怪に身体は本来の姿に戻る。大きな獣じみた妖怪の姿を目の当たりにしても、女は動じなかった。

「覚えているか」

妖怪が口を開く。夕焼けに照らされた広いグラウンドに、ぽつんと女は立っている。だいぶ前に廃校になったと聞いた、朽ちかけた鉄筋の校舎が、ぽっかりと大きな穴をあけていた。
先ほど妖怪が放った雷を、女がそちら側に反らしたのだ。

「・・・・覚えているよ」

そこに佇んだまま女は答える。夕焼けに照らされた長い影が、ふわりと揺らいだ。
妖怪は顔を跳ね上げる。女は細い両腕を妖怪に向けて振り下ろした。閃光が走る。

「とらちゃん。私はいつだって、覚えてる。そして、あなたたちのことを知るの」

雷で光を弾く。編んだ風は女に容易く解かれた。
雲を呼んでも、無意味だ。夕焼けに染められたグラウンドに佇む女には、一切の攻撃が効かない。まるで女の周りだけ、空間が違うようだった。
穏やかな表情のまま、じっとこちらを見据える彼女の目に、焦りは微塵も浮かんでいない。再び女が手を伸ばす。妖怪は咄嗟に飛び退いた。
じり、と首筋が焼ける。印が浮かび上がる。
少年は見ている。ここで妖怪が引けば、少年は自分を殺すだろう。少年にとって、妖怪はただの駒に過ぎない。道具に過ぎない。

「いつも、最後に知るの。悲しい結末だけを」

女の声が、すぐそこで聞こえた。視界が白く塗りつぶされる。雷はその光に飲まれて消えた。
今まであった景色が白い光の中に沈む。少年の視線も感じなくなり、首筋の痛みも静まる。
この空白の世界は、彼女の作り上げた、幻覚だろうか。
妖怪が女に訝しげな目を向ければ、女は淡く微笑んで、妖怪の首に触れた。表情も声も、穏やかで、まるで『最初』に出会ったあの少女のままだ。

「この印を消せるか」
「消せるよ」
「契約は破棄する。印を消せ」
「・・・・消せば、うしおくんが死んでしまう」
「あれはうしおじゃねぇ」
「うしおくんだよ。紛れもなく、彼は『今』のうしおくんだよ」

違う。妖怪は吐き捨てた。首筋にある女の手を取って、正面から睨みつける。
違う。アレはうしおではない。
うしおはあんなふうに笑わない。うしおはこんな風に人を殺さない。
アレが真にうしおなら、こんな風に、自分に真由子を傷つけさせたりしない。

「ねぇとらちゃん。あなたが拘るうしおくんは、途中の一人かもしれないよ。何度も繰り返されるうちの、あなたにとって都合が良かっただけの―――」
「『最初』を覚えているか。うしおが獣の槍を持っていた頃のこと」
「覚えているよ」
「じゃぁ、その『前』は?」

女は答えなかった。しかし、それが答えなのだ。
女の中にも、『最初』より前の記憶はない。だとしたら、あれが本当なのだ。あのときのうしおこそが、本物なのだ。

「印を消せ、マユコ」

低く唸る獣を前に、女は目を伏せた。悲しげに視線を落として、唇を噛み締めた。
ねぐらに戻ると、少年の頭がはじけ飛んでいた。細い手足が滅茶苦茶な方向に散らばっていて、点けっぱなしのテレビからは馬鹿みたいな笑い声が垂れ流されている。
妖怪が足を踏み出すと、パキリ、と音がした。足元に目を転じると、いつも少年が持っていた携帯が、光を失って沈黙するのが見えた。
テレビから、調子の外れた笑い声が聞こえる。大きな画面には、少年の血や頭の中身がこびりついていた。
じっとテレビ画面に目を向けたまま、妖怪は握っていた手に力を込めた。パキリ、と小さな音を立てて、先ほど女に手渡されたカプセルのようなものが割れた。
光が広がっていく。
ああ。まだ終らない。
いいや。まだ終らせない。

「次だ」

まだ次がある。
次こそは。次こそは―――――――
やがて白い光に飲まれ、妖怪の意識は霧散した。





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