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再び、目を開く。 
温度のない氷に閉ざされた世界に、妖怪はいた。 
薄暗い洞の中、妖怪の正面には白い着物を纏った少女が座している。 
 
「うしお」 
 
唇を揺らして呼びかければ、少女は静かに目を開く。黒い髪を床につくほど長く伸ばした少女は、神としてこの場に幽閉される妖怪を慰めるための巫女だ。 
少女は淡く笑んで、囁いた。 
 
「わたくしの名前は、うしおではありません」 
「いいや、お前はうしおだ」 
「御鏡様・・・・」 
 
困ったように眉を寄せ、少女が妖怪を呼ぶ。みかがみさま、と言うのが、人間どもが勝手につけた妖怪の『神名』だった。氷の中に閉じ込められている妖怪の姿を、鏡になぞらえているのだろう。 
妖怪はこの巫女である少女に乞われるまま、雨を降らし、時に雲を退けて、人間の暮らしを救ってきた。 
それもこれも皆、この『うしお』のためだ。 
氷の正面に座したまま、少女は妖怪に語りかける。妖怪を慰めるために、人々に豊潤をもたらすために、自らの人生を擲って。 
妖怪は氷の壁の中で、じっと彼女を眺める。少女はまた微笑んで、少しくすぐったそうに肩をすくめて見せた。 
この洞の中に、次の巫女だと言って『うしお』が現れたとき、妖怪は奇跡に背を震わせた。少女がこちらに向ける目は、微かに怯えを含んでいたが、自分を敵視するものではなかった。 
『前』とは違う。自分を悪魔と罵り憎しみの目を向けてきた、『ひとつ前』とは違う。 
少女は、妖怪のことを覚えている風ではなかったが、それでも妖怪は満足した。 
少女かこちらを見る、その目。黒く大きな両目は、『最初』のうしおと同じだったからだ。 
 
「うしお、近くに来い」 
 
氷の中から、少女を手招きする。少女は素直に立ち上がり、氷の周りに張り巡らされた結界を越えて近づいてきた。 
それでも、氷が阻む。 
少女が氷の表面に掌を当てる。まだ幼さの残るその掌は、白く滑らかだった。 
氷の中から、手を重ねる。伝わるはずのない温もりに、少女は悲しげに目を伏せて、微笑んだ。 
ああ。この手に触れたら。 
どのような心地がするだろうか。 
少女は妖怪をじっと見下ろしたまま、少し逡巡して、口を開く。 
 
「御鏡様・・・・、わたくしの名前は、」 
「お前の名前は、うしおだ」 
 
少女の声を遮って、妖怪は言った。何度交わされたか知れない言葉の応酬。時に少女は憤り、時に悲しげに目を伏せて、それでも結局は、妖怪の言葉を受け入れてきた。 
少女の『今』の名前なんて、妖怪には関係のないことだ。 
少女が何も覚えていなくとも、あの名前で自分を呼ばなくとも、『今』の世界に妖怪は満足していた。 
 
けれど、いつも終わりは唐突にやってくる。 
それは、少女が十八を迎えた夜のことだった。 
いつもの時刻、いつものように侍女に連れられて洞にやってきた少女は、妖怪の姿を見るなり泣き崩れた。少女の周りにいた女たちは、その姿を静かな目で見下ろして、いつものように洞を出て行く。 
妖怪は、いつにない少女の態度に戸惑った。 
 
「うしお」 
 
氷の中から呼びかける。少女は涙で濡れた顔を上げ、唇を戦慄かせた。 
 
「御鏡様・・・、今日でお別れです」 
 
白い着物の袖で目を覆い、少女が声を絞り出す。その言葉を聞いて、ようやく妖怪は思い出した。 
『御鏡様』に仕える巫女は時折、死ぬより前に代を変える。前にここに通っていた巫女も祭司からの求婚を受けて、『うしお』に役目を譲ったのではなかったか。 
妖怪は焦った。 
まさか。ようやくめぐり合えたと言うのに。 
氷の壁に手をついた。温度のない氷は、幾度内側から衝撃を与えても、壊れることはなかった。少女たちの『初代』である巫女が、自らの命と引き換えに作り上げた氷の呪いだ。 
この呪は、巫女の血を引いた少女にしか解くことが出来ない。 
 
「うしお」 
 
氷の中から呼びかける。少女はふらりと立ち上がり、結界を越えて近づいてきた。 
氷の外側から、妖怪の頬をなでるように、少女が掌を当てる。透明な涙が頬を滑り落ちて、祭壇の上に弾ける。 
あの温度も、味も、妖怪は知らない。透明な氷が、二人を阻む。妖怪はじっと少女を見上げた。 
触れたい。目の前にいるのに。 
何故。そこに居るのに。 
 
「うしお」 
 
少女はほんの少し微笑んで、さようなら、と告げた。 
その夜を境に、巫女は別の少女に代わった。新しい巫女は、妖怪のことを覚えていた。 
 
「うしおは何も知らないのか」 
「知らないと思うよ。僕も、言うつもりはないし」 
「何故」 
「何故?聞くまでもないでしょう」 
 
氷の向こうで、新しい巫女が首を傾げる。彼女は肩をすくめて、唇に笑みを滲ませた。 
『最初』の世界では、うしおと同様、少年であったはずの彼女。人工的に造られた妖怪と、邪悪の化身である妖怪の策略により生まれた鎌を携えていた。名前は、確か――― 
 
「キリオ」 
「懐かしい名前。・・・残念ながら、今は違うんだけど」 
「うしおもそう言ってたな」 
「彼女は今夜、祝言を挙げる。お相手は偉い僧侶様だよ。歳は彼女の倍以上だと言うんだから、笑っちゃうよ」 
 
少女はそう言って、また肩をすくめる。 
妖怪はそんな彼女の姿を、じっと見ていた。 
 
「なぁに?」 
「何故そんな話をする。わしがここを出られないと知って」 
「代が変わったと言うことは、今の巫女は僕だよ」 
「何が言いたい」 
「言いたいこと、解からないかな?『前世』では、もう少し勘が良かったと思うんだけど」 
 
少女が立ち上がる。白い着物の裾が、床にすれてしゅるしゅると音を立てた。 
向こう側から氷に手を突いて、キリオだった少女が笑う。 
 
「僕はこの役目を降りたい。うしおお兄ちゃんや君がこの世にいるのなら、きっと九印だっているはずだ。こんな場所に縛られ続けるなんて、ゴメンなんだよ」 
「キリオ」 
「九印が覚えてなくたって構わない。僕は彼を探しに行く。だから、君の世話を焼いている暇なんかないんだ」 
 
少女は笑う。解かるよね?と首を傾げて、妖怪と視線を合わせた。 
 
「あなたのお望みは?『御鏡様』」 
 
数秒の沈黙の後、妖怪は答えた。 
 
「――――この氷を、消せ」 
 
ああ。今度こそ。今度こそ。 
閉じ込められていた洞を抜け、空に舞い上がる。うしおの居場所はすぐに解かった。村の大通りに列が見える。輿の上に座しているのは、白無垢を身に纏ったうしおだ。 
風を切る。突如降り立った妖怪の姿を見て、人間は驚きに目を見張った。黄金の姿を、今まで自分勝手にあがめていた『御鏡様』だと理解したのは、花嫁衣裳に身を包んだ娘だけだった。 
腰に刺していた刀を抜き、列を作っていた男たちが斬りかかってくる。妖怪はそれを弾き飛ばし、娘を攫った。 
そのとき初めて、妖怪は少女の体温を知ったのだ。 
ああ。今度こそ。今度こそ。 
悲鳴一つ上げず、自分の腕に縋りつく少女の姿に、妖怪は満足した。うしおはきっと今に思い出すだろう。いいや。思い出さなくとも構わない。 
この目が自分に向けられる。そうして微笑む。それだけで、妖怪の心は満たされるのだ。 
 
「うしお」 
 
やがて村が見えなくなり、地に降り立った妖怪が腕の中の少女に呼びかける。少女は顔を上げ、微笑んだ。 
その白い頬に、涙が流れた。 
 
「うしお・・・」 
「どうぞ、行ってください」 
「何・・・?」 
「うしお様のところへ、行ってください」 
 
少女の言葉に、頭が真っ白になった。妖怪は言葉もなく、そこで涙を流す少女を見下ろした。 
何を言っている。何を言っているのだ。 
うしおはお前だろう。何度もお前を呼んだだろう。うしおのところへだと。 
お前以外のところへ、どこへ行けというのだ。 
 
「うしお」 
 
混乱しながら、少女の腕を取る。少女は静かに妖怪を見上げ、ああ、と震える唇を動かした。 
 
「最後まで、わたくしの名前を呼んで下さらないのですね」 
 
名前なら、何度も呼んだではないか。 
何度だって。何度だって、お前を呼んだだろう。 
何故答えない。何故解からない。何故、聞こうとしない。 
ああ。何故。思い出ださないのだ。 
覚えていないのだ。 
冷たい刃が、身を引き裂いたような感覚だった。妖怪は掌の中でつぶれた少女であったものを見下ろす。 
生暖かい。この少女に触れれば、自分は満たされると信じていたのに。 
ああ。何故。 
また、手に入らなかった。 
妖怪は湧き上がる衝動のまま、目に付く全てを焼き尽くした。悲鳴が上がる。何かが爆発したような音が聞こえる。黒いすすが舞い上がって、空は炎の色に染まった。 
熱された空気が、血の匂いを巻き込んで体に纏わり憑いてくる。荒い息を繰り返しながら、妖気は茫然と視線を彷徨わせた。 
何もない。真っ黒に焼ききられた世界。うしおは、もういない。 
うしおであったはずの少女は、さっきこの手で握り潰した。 
雲を呼ぶ。雷を迸らせる黒い大きな雲。 
炎を吐いた。自身の身体を囲うように。 
ああ。どれだけすれば。 
この身体は焼ききれるだろうか。この記憶も焼ききれるだろうか。 
どれだけすれば。 
辿りつけるのだろうか。 
 
 
 
 
 
 
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