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月明かりが、男の影を映し出す。 
探して、探して、ようやく辿りついた男は、しかし、鋭い怒りの目で、こちらを睨みつけている。 
黒い衣装に身を包み、胸に金色の十字架をぶら下げた男の『今』の職業は、陰陽ではなく神父というらしい。 
色こそ変わらなかったが、妖怪だった己の頭には、大きなとぐろを巻いた角が生え、ああいう格好をした人間どもからは、悪魔と呼ばれた。 
 
「うしお」 
 
悪魔に身を転じた妖怪が、男を呼ぶ。男は一度驚きに目を丸くしたが、すぐにまた視線を冴え冴えと尖らせる。 
 
「何故私の名を知っている」 
「覚えてねぇのか」 
「私がこの目に映した悪魔は、全て葬って来た。貴様のことなど、知る由もない」 
 
またずいぶんと、様相を違えたものだ。目の前の男は明らかに『うしお』であるはずなのに。 
手を伸ばす。男は懐から銀色の刀を取り出した。男が何事か呟けば、その銀色の刃に力が宿る。 
人にあらざる力。けれど、蹂躙できぬほどのものではない。男は何の躊躇いもなく斬りかかってくる。その目に宿っているのは、明らかな憎悪だ。 
あの目に、憎まれたことなどあっただろうか。 
男の刃を容易くかわしながら、妖怪は思う。『ひとつ前』のこと、そして、『最初』のこと。 
最初のうしおは子供だった。頭の悪い、正義感に満ち溢れた、人間らしい人間だった。 
ひとつ前のうしおは陰陽師だった。頭の悪さも、正義感の強さも変わらなかったが、どこか浮世離れした人間だった。 
ギン、と男の刃が月明かりを反射しながら、はじけ飛んだ。 
大きな目が見開かれる。妖怪は更に距離を詰めて、その瞳に己を映した。 
 
「お前の目に映った悪魔は、みんな死んだってなぁ?」 
 
口の端を吊り上げて笑うと、男は鋭く舌を打って、身を翻そうとする。 
妖怪は許さなかった。男の頭を鷲掴みにし、地面に叩きつける。男は低く呻いて口から血を吐いたが、意識を飛ばすことはなかった。 
痙攣する手足を必死に動かして、起き上がろうともがく。それを上から踏みつけて、再び地面に縫いとめた。 
地面を割るほどの衝撃を受けて、ようやく男の動きが止まる。妖怪はその身体をつまみ上げ、十字架のぶら下がった胸に耳を押し当てた。 
弱弱しい鼓動が聞こえる。にぃ、と無意識に、妖怪は笑んでいた。 
手に入れた。今回の世界で目を開いて、どれ程の時間を要したか知れない。散々焦がれ続けた、『うしお』の魂を持った人間だ。 
妖怪は男の身体を抱えて空に舞い上がる。月明かりに金色の毛が輝き、心は踊った。 
今度はきちんと覚えていたのだ。思い出した瞬間、手遅れになった『ひとつ前』とは違う。 
きっと、じきにこの男も思い出すだろう。人と違って、妖怪の寿命は長い。気長に待てばいい。 
きっと。『うしお』は思い出す。そして、三度あの名前で自分を呼ぶのだ。 
きっと。 
きっと今に、うしおは目を覚ます。
  
しかし、妖怪の期待した瞬間は、その後、どれ程待っても訪れる気配はなかった。 
妖怪がねぐらにしている朽ち果てた古城に、男はころがされていた。 
暴れるので仕方なく縛りつけた手足には枷が深くめり込み、血を滲ませている。一度、舌を噛んで自決しようとしたので、口枷もつけた。 
男は妖怪の姿を見るたびに、その目に憎悪の色を滲ませた。口枷のお陰で上手く呼吸が出来ないのか、ふうふうと息を荒げながらも、突き刺すような視線で妖怪を睨む。 
 
「食え。物を食わねば、人間は死ぬんだろう」 
 
口枷を剥ぎ取り、近くの町から調達してきたパンを突きつける。男はそれに見向きもせず、言った。 
 
「汚らわしい悪魔が。私に触れるな」 
「お前・・・、今の立場を理解してんのか?」 
「貴様に施しを受けるくらいなら、死んだ方がマシだ!」 
 
突き放すように、男は叫んだ。妖怪は苛立ちを覚え、掴んでいた男の襟元を振り払う。支えを失った男は、そのまま床に倒れこんだ。ご、と鈍い音がして、石畳の床に男が頭を打ち付けたことを知る。 
痛みに顔をしかめる男の顔は、憔悴しきっていた。 
妖怪がこの古城に男を連れ込んで、どれくらいの日がたっただろうか。はっきりとはしないが、その間、男は食事の一つも、水の一滴だって口にしていない。 
このままでは、男は死んでしまうだろう。床に力なくひれ伏す男の身体を見下ろしながら、妖怪は苛立ちと共に焦りを感じ始めていた。 
何故。何故思い出さない。 
確かにこの男は『うしお』のであるはずなのに。 
妖怪は足元に転がったパンを蹴り、男の口元に寄せた。喰らいつく気配はないが、そのままにしておく。 
水を飲まないのなら、頭から浴びせかけてしまえばいい。男は更に臍を曲げるだろうが、死なれるよりはマシだ。 
妖怪は男をそこに転がしたまま、部屋を出た。朽ちた古城には、以前ここに住んでいたであろう人間が残していった家具がそのままにされている。妖怪はその中から適当に花瓶を選び取り、庭先にある井戸で水を汲む。決して清潔とは言い難いが、死ぬほどの毒気も見受けられなかったので、ひとまず大丈夫だろう。 
石で出来た窓に飛び移り、妖怪は考えた。 
きっと、待っているだけでは駄目なのだ。何か、『ひとつ前』の自分が思い出したときと同等の、きっかけを与えてやらねば。 
窓から大きな身体を滑り込ませ、石の床に足を下ろした妖怪は、一瞬、動きを止めた。 
 
「あ、とら様!」 
 
古城の周りをうろついている悪魔の中でも、とりわけ聞き分けのない女が顔を上げる。両腕が翼の形になっている彼女は、確か『最初』の頃に何度か目にした記憶がある。 
ニコニコと微笑みながら擦り寄ってくる態度は、あの頃から変わらない。 
 
「面白いモノを手に入れたんです。とら様に差し上げたくて」 
 
媚びるようにこちらを見上げてくる女の悪魔は、人間にはない美しい顔をしていた。その白い陶器のような肌には、真っ赤な血がこびりついていた。 
足元に流れ込んでくる赤は、見慣れた色だ。匂いだって、幾度となく同じものを嗅いできた。 
 
「うしお」 
 
そこに転がっていたのは、間違いなくあの男の首だった。 
 
「ああ、あの人間・・・。とら様を侮辱するものですから。ねぇ、とら様、そんなことよりも・・・・」 
 
女の手が妖怪の腕に触れた。手から花瓶がこぼれて、床で破裂する。同時に、言いようもない激情が、妖怪の腹の中で爆ぜた。 
女の悲鳴が聞こえた。男のものでない鮮血が飛び散る。皮も内臓も骨も全て砕いてすりつぶして、完全に何か解からなくなるまで、妖怪はそれを叩きのめした。 
やげて、音が途切れる。 
風も吹かない古城の中で、ぼんやりと床を見る。 
真っ赤に染まったそこには、元々女だったものの残骸と、男の二つに切り離された首と身体が転がっている。 
ああ。何故。 
何故、間に合わなかった。 
まただ。また間に合わなかった。あと少し。もう少しすれば、きっと男は思い出したはずなのに。 
きっと、またあの名前で己を呼んだはずなのに。 
何故。 
血に染まった両手で、男の首を拾い上げる。妖怪は壊れたように笑い出した。 
抑揚のない笑い声は古城の壁に床に反響して、わんわんと脳を揺らした。 
 
そうして、その場にいた全てが動きを止めた。 
 
 
 
 
 
 
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