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十年後・大妖怪と住む日常。 
 
1、煙草に関して 
 
 
 
 
 
テレビのリモコンを握り締め、ふわ、と大きなあくびをする。 
金色の妖怪は、つまらなそうに何度もリモコンを弄り回しては、覚えたての操作で、次々番組を切り替えてゆく。 
アルミの窓枠に切り取られた都会の空は、今日もあせた色を浮かべて、外に飛び出していく気力を殺ぐ。 
 
妖怪は、暇だった。 
 
憎き大妖・白面との、文字通り命をかけた戦いに勝利し、妖怪はあの時、空に溶けた。 
長きに渡っての因縁を清算した妖怪の胸中は、自分でも驚くほど穏やかなものだった。 
妖怪は、空気中に散っていく力と、感触を、惜しいとも思わず、消えることをただ静かに甘受した。 
しかし、すがりつき泣き喚く子供の声が、穏やかだったはずの心に、爪の先ほど小さな、傷をつけた。 
 
あの時、妖怪は躊躇った。 
その子供を、手放すことを躊躇した。 
 
人はそれを、未練、と呼ぶ。 
 
ぽふりと柔らかい音を立てて、部屋のほとんどを埋め尽くしているベッドが、倒れこんできた妖怪の頭を受け止める。 
同時に、不快なあの煙の匂いが、鼻をついた。 
 
空に解けた日から、早十年、一欠片浮かんだ未練に引きずられ、妖怪は再び土から立ち返った。 
今現在、妖怪の身に宿るのは、その未練の心が大半を占めている。 
だから、今ここに在る妖怪が、以前の妖怪とそっくり同じものか、と聞かれれば、当然答えは、否だ。 
それでも、金色に輝く長い鬣も、鋭い視線も、生えそろった牙も、あの時の妖怪とはなんら変わりない。 
圧倒的な破壊力を誇る雷も、滅多に使役することはなくなったが、健在だった。 
ただ、決定的に違うのは、認識、だ。 
 
「つまらん・・・」 
 
ぼんやり呟いて、リモコンを出鱈目に押していく。 
よく目にする芸人が、いつもと同じことを言って、笑っている。 
この表情も動きも、昨日見たとおりだ。 
 
「ちったぁ芸を磨け、・・・一発屋めが」 
 
フンと鼻を鳴らして、リモコンをぞんざいに投げ捨てる。 
顔をベッドに埋めると、不快な煙の匂いのむこうに、この部屋の主人であるニンゲンの匂いがした。 
 
十年たてば、子供は大人に成る。 
大人に成れば、当然嗜好も変わる。 
十年前、何の遊びも知らなかった、ただ純粋なだけだったあの子供は、今や酒も煙草も嗜む、一端の男になっていた。 
何千と言う歳月を生きてきた妖怪にとっては、まだまだヒヨッコもいいところではあるが、育った子供を目の当たりにしたときの、あの衝撃は散々なものだった。 
 
「・・・くそ、つまらん」 
 
ぱたり、と手のひらがベッドに落ちる。 
 
子供は『ガッコウ』を卒業し、家を出て、空気の悪い都会に住み、今は『カイシャ』と言うところに通っているらしい。 
新しい住処は、想像を絶するほど狭く、妖怪の嫌いな金属で溢れた、それはそれは不快な、『まんしょん』とか言う一室だった。 
 
身体の大きい妖怪は、もともとの子供の住処であった寺でさえも狭く、辟易していたと言うのに、こんな馬小屋以下の部屋に押し込められたのでは、たまらない。 
身動きすら取れない状況に何とか対応すべく、苦肉の策として、妖怪は縮んだ。 
妖怪、と言うだけあって、変幻自在だ。 
この時ばかりは、自分が妖怪であったことに感謝の念すら抱いた。 
何かに感謝したことなど、生まれてこの方、初めてではないだろうか。 
それほど、妖怪はこの部屋の狭さと金属製の家具に、我慢が出来なかった。 
 
今は縮んで、子供のような形状を取る小さな手で、ぎゅ、とベッドカバーを握り締める。 
 
以前の妖怪であれば、こんな屈辱的な状況を受け入れるなど、あり得ないことだっただろう。 
しかし、十年経てば人も変わるように、一度死んで蘇った妖怪も、変わる。 
 
妖怪の中にあった未練は、子供から男に成長したあのニンゲンへの、執着に変わった。 
そして執着は、また徐々に変形を見せ始めている。 
 
「・・・つまらん」 
 
ベッドにぐりぐりと鼻先を擦り付けて、男の匂いを探る。 
小さく変化した妖怪は、可愛らしい両足をばたばた動かして、部屋の主人がここに居ない現実に、抗議する。 
 
妖怪は、暇だった。 
 
あの男のために、わざわざ還ってきてやったと言うのに、あの男は、家で待つ妖怪より、『カイシャ』を優先する。 
それが酷く、つまらない。 
 
 
 
 
* 
 
 
 
 
コンビニで買った夕食が、ビニル袋の中でがさがさと揺れている。 
白い息を吐きながら、男は足早にマンションのエントランスに駆け込んだ。 
カードキーを通して、マンションホールの扉を開けば、幾分温かい空気が出迎えてくれる。 
暗証キーを入力して集合ポストの一つを開く。 
DMが大半を占める郵便物をいつものように流し見ながら、二つあるエレベーターのボタンを二つとも押した。 
光が灯ったのは、両方とも最上階。 
見上げた男は、ち、と舌打ちして、モッズコートのポケットに突っ込んでおいた煙草の箱を探り当てた。 
慣れた動作で一本咥えて、それから斜め上に設置された防犯カメラの存在を思い出す。 
 
今や、東京の大半の場所は、健康を盾に禁煙を謳い、愛煙者をこぞって締め出そうと躍起になっている。 
 
マンションホールであるここも、共同名場所と言うことで、当然、禁煙である。 
存在否定も甚だしい、と二重の苛立ちを覚えてポケットに煙草を押し込むと、ぽーん、と音がして右側の扉が開いた。 
ビニル袋をがさがさ鳴らしながら乗り込むと、ふわりと嗅ぎなれた匂いが鼻腔をくすぐる。 
同じ銘柄の煙草を好む住人が、自分の他にも居るらしい。 
 
しかし、これほど匂いが篭るものなのか。 
 
まさか、エレベーターの中で煙草を吸う、などという暴挙に出るものは居ないだろう。 
しかしここまで、鮮明にあの煙の味を連想させるとは。 
洋服に染み付いた匂いは簡単に落ちないんだなァ、と、ようやく自覚した男は、いつも鼻先に皺を寄せ、不機嫌になる同居人の顔を思い出した。 
目的の階に到達したエレベーターの扉が、左右の壁の中に吸い込まれていく。 
男はエレベーターを降りると、革靴のかかとを鳴らして、自分の部屋へと急いだ。 
 
思い浮かべてしまったら、すぐにその顔を拝みたくて、たまらなくなった。 
 
荒い手つきで鍵を開けると、細い廊下の先から、テレビの大音響が聞こえてきた。 
液晶テレビと、ベッドに大半を埋め尽くされた部屋は、一つしかないワンルーム。 
五歩もない廊下を進んだ後、到着する部屋の中には、窓際に鎮座したベッドの上に、うつ伏せで寝転んでいる金色の獣がいた。 
今は縮んで、まるでぬいぐるみのような愛らしい姿をしている妖怪は、男の帰宅にも何の反応も示さず、じっとベッドカバーを握り締めたままだった。 
 
「ただいま、とら」 
 
無意識に出た声は、なんとも甘ったるい。 
これぞまさしく、猫なで声と言うやつなんだろう。 
 
ガサリとテレビの前のロウテーブルに夕食を乗せて、ベッドの端に腰を下ろす。 
それでも反応を示さない金色の獣の周りには、目に見えないが、はっきりと不快、の文字が浮かんで見えた。 
 
「何拗ねてんだよ、ホラ、メシ買ってきてやったぞ」 
 
金色の毛に指を通しながら、自分でも胸焼けしそうなほど、優しい声で呼びかける。 
その時、ぴくり、と妖怪が大きな耳を尖らせた。男の言葉に反応したのではない。 
それはすぐに、男も理解した。 
 
「・・・・今帰って来たばっかりなんだけどよ」 
 
アルミサッシの窓の向こうに、都会の夜空に不釣合いな白い影を見つけて、男は顔をしかめた。 
じっとこちらに顔を向け、音もなく佇む白い影は、梟だ。 
しかしその顔に本来あるはずの両目はなく、代わりに見覚えの在る術式が描かれている。 
思わずぼやいたのと同時に、携帯電話がなり始めた。画面に映し出された名前を、確認するまでもない。 
あの白梟は、関守日輪の『式神』だ。 
 
「―――――蒼月、仕事だ」 
 
通話ボタンを押したと同時に、落ち着いた女の声が鼓膜を叩く。 
 
 
蒼月うしおは、思わずち、と舌を打った。 
 
 
 
 
* 
 
 
 
 
太陽が沈んでも、都会の夜は明るい。 
月の明かりすら、かすんで見える。 
 
「くぅだらねぇ」 
 
胸の前で両腕を組んで、とらが吐き捨てる。 
本来の、大きな獣の姿へと戻った妖怪は、雄雄しく、美しい。月明かりにキラキラと輝く鬣には、思わず目が奪われる。 
黒いスーツの上にモッズコート、という都会の街に相応しいサラリーマンスタイルで夜道を歩くうしおは、姿を消し、ふわふわと浮かんでいる妖怪に向け、苦笑した。 
 
「だったら家で待ってろよ。すぐ終らせて帰るからよ」 
 
別に、付いて来いとは言っていない。妖怪が勝手に、うしおの後を追って来たのだ。 
しかし、そんな妖怪の不興を買うような言葉を、わざわざ口にするつもりはなかった。 
だって正直、付いてきてくれたことが、嬉しいのだ。絶対に、言わないけれど。 
 
日輪の白梟に導かれ訪れた先は、既に人の気配のない、廃れた団地の一角だった。 
人に捨てられても、未だ道としての役割はあるのか、街頭がポツリポツリと黄ばんだ光を灯し、黒く固められた地面に明かりを落としている。 
何故だか、今まで在った都会の喧騒は姿を潜め、代わりに凍えるような冷気が、足元から忍び寄ってくる。 
もはや、うしおにもとらにも、慣れた感覚だ。 
うしおはコートのポケットに両手を突っ込んだまま、不意に歩みを止めた。 
 
ざわり、音もなく揺らぐ気配が、うしおの肌を刺す。 
 
彼のポケットに押し込められているのは、煙草の箱だけではない。 
素早く抜き取られた両手には、二対の法輪が握られていた。 
うしおが口の中で素早く術式を詠唱すると、彼の力が法輪に宿る。 
瞬間、光とともに、ぞん、と音を立てて、円盤の周囲に八本、鋭い棘が飛び出した。 
『千宝輪』と呼ばれる武法具に法力を溜めて放つそれは、うしおの父親が得意とした攻撃パターンの一つ、 
 
「巍四裏!!」 
 
両手をクロスさせるように振り下ろし、放つ。 
うしおの手を離れた千宝輪は、凄まじい音とスピードで空気を切り裂き、目に見えぬはずの影を、捉えていた。 
 
ギャン、 
 
影と千宝輪が衝突し、暗闇に火花が散った。 
威力を落とさぬままに、大きなカーブを描いてこちらに戻ってくる千宝輪を、両手で受け止める。 
ちらりと確認したそれは、棘の先が解けて、黒いドロドロしたものが付着していた。 
 
先ほど電話を寄越した女は、土くれの変化、と告げた。 
 
しかし、鼻を突く匂いは、土くれと言うより、最近身近になった、別のものを連想させた。 
暗闇から沸きあがる影を捉え、うしおは鼻を鳴らした。 
 
なるほど。 
時代にあわせ、妖怪も変化を遂げるものか。 
 
これはまさしく、アスファルトを形成する、タールの溶けた匂いだ。 
 
最高峰の法力僧と湛えられる父親と違い、うしおは恐ろしく力のコントロールが下手糞だった。 
だから、本来ならば繊細なコントロールを要する『巍四裏』はうしおに向かない。 
だが、巍四裏の破壊力は、他の法術の比ではない。そこにうしおは惚れ込んだ。 
どうにかこの技を使えないものかと考えあぐねいた結果、頭の悪いうしおが出した結論は、数打ちゃ当たる、と言う非常に適当なものだった。 
コントロールが利かないのなら、数を増やすのみ、である。 
幸い、うしおは出鱈目なほど無尽蔵のスタミナをもっている。 
通常ならば一つのみで扱う千宝輪を複数所持し、次々法力を込めては、放つ。 
 
それはさながら、マシンガンのようだ、と思う。 
 
自己陶酔もいい所では在るが、その攻撃力・破壊力たるや凄まじく、上司であるところの関守日輪も、うしおの子供っぽい欲求を、黙認せざる負えないのが現状だ。 
 
鋭く空気を切り裂きながら、うしおの法力を宿した円盤が、光の帯を引き、夜の闇に走る。 
暗闇に浮かんだ影は、目で確認できただけで、十は超えていた。 
 
 
 
 
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