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赤い実を摘む夢を見た。 
裂けた皮の間から現れた、真っ赤な果実。 
 
 
爆ぜて身体を、赤く染めた。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
柘榴/単細胞と策士 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「人肉の味に似てるとか、言ってたヤツがいたなァ」 
 
今まさに、喜び胡散でほおばろうとしていた気分が、一瞬でしぼんだ。 
少年は手の中の赤い実をしばらく眺めた後、少し離れたところで、ぐうたらと寝転んでいる金色の獣を睨みつけた。 
 
「お前、何だよ、嫌がらせかよ」 
 
不機嫌そうな声を聞いて、金色の獣が、面白そうに口の端をゆがめた。 
根性の悪い妖怪の反応に、少年がチッと舌を鳴らす。 
瑞々しくも毒々しいまでに赤い果肉に、再び視線を戻す。 
別に妖怪の言葉を聞いたからというわけではないが、確かに、それを連想させる色だ。 
 
「うしお、」 
 
いつの間にか近づいた声が、耳を撫でた。 
あまりの不意打ちに、少年がゾッと背筋を凍らせたのと同時、べちゃり、という粘着質な、嫌な感触がうなじに触れた。 
 
「ぎゃー!」 
 
振り向けば、首から背中にかけて、景気よく真っ赤な実がぶちまけられていた。 
潰れて染み出した蜜は、これでもかというほど甘い匂いを放ちながら、少年の白いワイシャツに染み込んでゆく。 
一瞬で真っ赤なしみの広がったシャツを摘みあげ、少年は喚いた。 
 
「何してくれたんだよ!!制服シミになっちまうじゃねーか!!」 
 
怒りの表情で睨みつけるが、妖怪はいつものように応戦してこなかった。 
果汁で赤く染まっていく少年の姿をしげしげと眺め、不満そうに首をかしげる。 
少年はますます顔を真っ赤にして、妖怪に掴みかかった。 
 
「人間の血ってのはなァ」 
 
少年が怒鳴るより早く、妖怪が口を開いた。 
思いもしなかった言葉に、怒りも忘れて、少年がきょとんと目を丸くする。 
 
「こんな色じゃねーぜ」 
 
するりと妖怪の大きな手が、少年の首を撫でた。 
爪先で掬い上げた実の一粒を、長い舌に乗せ代えて、妖怪は見せ付けるようにそれを噛みつぶす。 
ぷつりと小さな音を立てて鋭い牙に貫かれた果肉は、てらてらと赤い蜜を光らせながら妖怪の顎を伝い落ちていった。 
 
「・・・何だよ、意味わかんねー」 
 
一気に勢いをそがれて、少年が弱弱しく返すと、妖怪は楽しそうに口の端を吊り上げた。 
それから、なんともいえない甘い声で、囁いた。 
 
「本物の人間はなァ、もっと赤が深くて、甘くて、腹の底が疼くような匂いがするのよ・・・こんな安っぽい色じゃねぇ」 
 
少年の大きな目が、驚いたように妖怪を見た。 
鋭い牙が、今にも首筋に食い込みそうな位置にある。 
 
「何わけわかんねーこと言ってんだ!近けぇんだよ!!お前は!!」 
 
わざと大声を出して振り払う。 
指先をすべる金色の毛が、室内光にきらきらと輝いた。 
 
「どーしてくれんだよ、これ!!べったべたじゃねーか!」 
 
乱暴に妖怪の胸を突き飛ばして、少年は真っ赤なシャツを摘んで抗議する。 
妖怪はつまらなそうに鼻を鳴らして、少年に乱された金色の毛をかき上げた。 
それから、何か思いついたようにまた意地悪い顔で笑って、指先で少年を呼ぶような仕草をした。 
 
「気に入らねーなら、コッチ来いよ。全部綺麗に舐めてやる」 
 
ニヤニヤと笑う妖怪の台詞を、一拍後に理解して、少年が勢いよく赤面した。 
 
「ば・・・ッかじゃねーの!?このアホ妖怪!!」 
 
悔し紛れにその辺にあった雑誌を投げつけて、少年は部屋を飛び出した。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
腹立たしげに大またで風呂場まで行くと、歩きながら脱いだシャツを、乱暴に洗面台に叩き付けた。 
蛇口をひねれば、勢いよく水が流れ出してくる。 
一瞬で色を変えたシャツを力任せにゴシゴシとしごきながら、少年は力いっぱい唇を噛み締めた。 
頭の奥で、まだ金色の妖怪が笑っている。 
馬鹿にするような、試すような顔で笑っている。 
 
「くそっ」 
 
それを追い払うように、ずぶ濡れのシャツを洗濯機に放り込む。 
べちゃっと音がして、少し的を逸れたシャツが、一瞬間を置いて洗濯槽に落ちた。 
 
「どーしてくれんだ、あのアホ妖怪・・・」 
 
首に残った果実をその辺のタオルでゴシゴシ擦りながら、取りきれない不快感に眉を寄せる。 
鏡の向こうに、真っ赤な顔を不機嫌そうにゆがめた子供が映っていた。 
よく見れば、うっすら目に涙がにじんでいる。 
少年は冷めない怒りの熱を、どうにか静めようと大きく息をついた。 
それから、ずるずるとその場に崩れ落ちる。 
 
いつからだ。 
 
色んな感情でグルグルと入り乱れる思考の奥で、重く沈んだ問いが頭をもたげる。 
熱はゆっくりと冷めてゆき、代わりに鈍い寒気が腹の底から湧き上がってきた。 
 
いつからだ。 
こんな風にかき乱されるようになったのは。 
 
硬く目を閉じる。 
息も殺して、膝を抱えた。 
何も考えもしなかった頃は、アレに対してすら、人を想う柔らかな気分に浸れたのに。 
今は、まるで正反対な黒い感情が、身体を染めていくのが解かる。 
 
「違う」 
 
低く呟いて、身を縮めた。 
受け入れてはいけないと、本能が言っている。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
きっともう、とっくに気付いている。 
それでも解からない振りをして、試すようにして、少し離れたところから、じっとこちらを窺っている。 
決定的な言葉を、待っている。 
止めを刺すのを、楽しんでいる。 
部屋に戻ると、金色の妖怪は姿を消していた。 
だが、さほど遠くない場所に気配を感じる。 
おおかたまた、居間に寝転んで、お気に入りのテレビでも見ているんだろう。 
ため息をついて、床にぶちまけられた果実を拾い始めた。 
先ほどのやり取りの所為で、すっかり食欲は失せてしまった。 
 
「何だよ、珍しいから・・・一緒に食おうと思ってたのに」 
 
存在は知っていたが、実際手にしたことは無かった。 
少年が住む寺の、檀家の老夫婦が分けてくれたものだ。 
はじけた皮の間からのぞく、真っ赤な粒。 
始めて見た瞬間の、宝石のようにキラキラとした瑞々しい輝きは、もはやそこには残って居なかった。 
 
「バカ妖怪・・・」 
 
そうやって馬鹿にして笑って、それからどうするつもりだ。 
無責任に陥れて、その先は、どうするつもりだ。 
結局、どうするつもりも無いんだろう。 
アレにとっての自分など、長すぎる生涯に一瞬すれ違う程度の、小さな存在に過ぎないのだ。 
ぽたりと涙が落ちた。 
無理に息を殺した所為で、耳の奥が鈍く痛んだ。 
拾い終わった果実をまた紙袋にもどして、少年は床にしゃがみこむ。 
また膝を抱えて、身を硬くする。 
こんな風に、声を殺して泣いてることも、苦しくて声すら出せないことも、全部気付いているんだろう。 
それでも、何も言わず、試すように笑う。 
指先で、まるで犬でも呼ぶように、意識を引いて、簡単にコッチへ来いと言ってのける。 
その距離がどれほどのものか、その線がどれほどのものか、気付いていながら、笑う。 
 
「くそ・・・っ」 
 
顔をゴシゴシこすって、吐き捨てた。 
部屋に残る甘い匂いが、不快でしょうがなかった。 
 
「なぁ、」 
 
不意に声がする。 
顔を跳ね上げて、少年は振り返った。 
金色の妖怪が、音もなくそこに現れる。 
ふわりと金色の毛が揺らいで、この世のものではない風が流れ込んできた。 
冷気が裸足の指をくすぐる。 
少年は表情を殺して、妖怪を見た。 
妖怪は少し、首を傾げて笑った。 
 
「おめぇ、最近変だぜ。何を考えてやがるんだ?」 
 
白々しく、妖怪が言った。 
腹の底で爆ぜる感情を、どうにか押し殺そうと、息をつめた。 
沈めたはずの遣る瀬無さが、また涙腺を押し上げてのぼってくる。 
どんどん息が苦しくなって、指先が震えだした。 
 
「違う」 
 
堪えきれずこぼれた声は、まるっきり涙声だった。 
 
「何が違う?」 
 
低い妖怪の声が、それは優しい響きで問いを寄越した。 
それとは裏腹に、妖怪の鋭い両目は、今にも堕ちそうな獲物を前に、ギラギラと輝いている。 
少年はじっと妖怪を睨んだ。 
涙を隠すのも、どうでもよくなった。 
今はただ、苦しい。 
悲しくて、忌々しい。 
 
「お前とは違う。人間と妖怪とは、違う」 
 
涙に震えた声は、それでも嫌に冷静で、はっきりとした拒絶を含んでいた。 
 
「人間なんか、すぐ死んじまうんだ。一生なんて、すぐ終る。いっこ間違えれば、最期まで・・・」 
 
取り返しが付かない。 
最後は声にならなかった。 
少年はふっと視線を和らげて、頭を垂れた。 
妖怪は期待外れな少年の反応に、少し面白くなさそうに、ため息をついていた。 
するりと金色の毛が畳をすべる。 
妖怪が部屋を出て行こうとしているのを、気配で感じて、少年は言った。 
 
「・・・人間は、後悔だってするんだ・・・・」 
 
幾度悔やんでも、悔やみきれない。 
これ以上先に進めば、取り返しが付かない。 
いや、もう既に、ここも同じだ。 
自分の望んだ場所ではない。 
 
「くだらねぇ」 
 
妖怪が冷たく吐き捨てた。 
視線を上げれば、妖怪はまだそこにいて、見下すような目をこちらに向けた。 
乾いた涙が張り付いて、気持ちが悪い。 
部屋に残る甘い香りが、更に呼吸を苦しくさせた。 
 
「結局オメーは、覚悟が足りねぇんだ。それを、わしの所為にすんじゃねぇ」 
 
妖怪の言葉に、微かに怒気が篭る。 
少年は、不思議そうに妖怪を見上げた。 
さらさらと金色の毛が、頬に滑り落ちてくる。 
大きな妖怪の影は、簡単に少年を覆いつくして、小さな身体を威嚇するように、鋭い視線を寄越した。 
 
「いつまでもウジウジウジウジしやがって・・・!いい加減ハラァ括ったらどうなんでぇ!」 
 
苛々と鼻先にしわを刻んで、ついに妖怪が大きな声を出した。 
少年は妖怪の言葉の意味が解からず、困り果てたように大きな目を何度も瞬かせる。 
畳みにへたり込んだまま、戸惑うことしか出来ない少年に、妖怪は不機嫌の極みと言った表情を浮かべ、ちっと舌を鳴らした。 
そのまま顔を逸らして、部屋を出て行こうとする。 
 
「とら、」 
 
それを、少年の声が呼び止めた。 
不機嫌なままの妖怪の顔が、こちらを向く。 
どうして今になって、いきなり余裕の無い態度を取るのか、意味が解からない。 
続けようとしたが、どう訪ねていいかも解からず、言いよどむ少年に、妖怪はわざとらしいため息をついた。 
 
「何だよ、聞きたいことがあんならはっきりしろよ。つーか、言うことがあるだろ、むしろオメーには」 
 
部屋の入り口で、首だけこちらを向けて、妖怪が矢継ぎ早に言葉を投げてくる。 
少年はますます混乱して、余計言葉が思いつかず、ついに黙り込んでしまった。 
いつもは元気よく上を向いた眉を情けなく落として、視線まで床に落ちる。 
重力も手伝って、また涙がこみ上げてきた。 
 
「オメーが何で怒ってるか、わかんねーよ・・・・」 
 
絞り出した声はあまりにも弱弱しく、どうやら妖怪の辛抱を、一瞬で粉砕してしまったようだ。 
 
「あーッもう!!だからガキはキライなんだよ!!」 
 
大声で怒鳴って、妖怪がこちらを向いた。 
大きな手が、乱暴に少年を引き寄せた。 
 
「いいかうしお。命を賭ける戦の場ではなァ、だいたい先に仕掛けた方が馬鹿を見るのよ・・・」 
 
鼻先を近づけて、押し殺したような声で妖怪が言う。 
少年は驚いて、こくこく頷いて見せるが、言っている意味の半分以上が理解できない。 
それを感じ取ったのか、妖怪はますます怒りをあらわにして、口の端を引きつらせた。 
怒りに、感情のコントロールを見失ってしまったのか、妖怪の顔には不自然な笑みが浮かんでいる。 
 
「とら・・・なんかお前、怖いぞ・・・」 
 
青ざめて、少年が妖怪の額を撫でた。 
小さな掌が、必死になだめようと、顔を摩る。 
不覚にも一瞬和んでしまった妖怪は、少年を突き飛ばして、叫んだ。 
 
「だからっ!おとなしく負けを認めろって言ってんだよ!!」 
 
感情が爆ぜる。 
勝負は多分、一瞬だ。 
どちらかが仕掛ければ、それで済む。 
けれど、疑心暗鬼にとらわれた単細胞と、プライドばかりが高い策士は、後一歩で動かない。 
床に叩きつけられてぽかんとする少年と、息巻いて怒鳴った妖怪は、その後しばらく何も言えず、ただ睨み合うことしか出来なかった。 
 
 
 
 
簡単そうにみえた勝負も、どうやら決着は、しばし先のことになりそうだ。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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