JUNK WORLD

■文




衝動的に、噛んだ。
むき出しになった細い鎖骨に、小さな歯型が浮き上がり、微かに血がにじんだ。
銀髪の男は一瞬驚いた顔をしたが、いつもの感情の読めない薄ら笑いを浮かべて、どうした、と首を傾げて見せた。
白い手袋が、傷口を確かめるようにすべる。
あの程度、すぐに消えてしまうんだろう。

「不公平だ」

無意識に声が出た。
こっちはこんな傷よりよっぽど深く、心をえぐられているのに。
赤い両目が静かにこちらを向く。
真紅の世界に、涙を浮かべた幼い自分が写っていた。
情けないと思ったが、どうしても反らせない。
じっと睨みつける。
男はずっと口元を歪ませたまま、ゆっくりと、静かに、

言った。


「失敗だなァ。・・・お前なんか、選らばきゃよかった」







うんざりするくらい、晴れていた。
妖ギャモンが生み出したこの逆日本は、何故か嫌味なくらいに長閑な晴れた日が多い。
元々、生活のほとんどを人間の影の中で過ごす不壊にとって、この晴天は正に嫌がらせでしかなかった。

「・・・こりゃァ明らかに、個魔に対するイジメだよな」

白い手袋をした大きな手で、顔の前にひさしを作る。
気持ち視力の回復した世界には、空を照らすお天道様よりもっとうんざりするぐらい明るい顔で、相棒の少年が笑っている。

「何やってんだよ不壊ー!置いてっちゃうぞー!!」

子供の幼い両手を振り回して、必要以上の大音響で叫ぶ。
三志郎は確かに可愛いが、こんな日には、少しだけ、ほんの少しだけ、マジで面倒臭い。

「あーあー、怪我しネェ程度になら、好きにやってくれ。オレァオレのペースで頑張るからよ」
「不壊が頑張ってるとこなんて、見たことねぇー!」

大きな口をあけて、ぎゃははと爆笑する。
何がそこまで面白かったのか、何となくイラッとしながら、嫌味の一つでも言ってやろうと口を開きかけたが、止めた。

「兄ちゃん、前見て歩け」

不壊が言うが早いか、ほとんど同時に三志郎が足元の小石にけ躓いて、派手に転んだ。
勢いが付きすげて、笑ってしまうほど綺麗に、ぐるんと後転までかます。

「いってー!こけたー!!」

地面に打ったらしい身体をさすりながら、賑やかに立ち上がる三志郎の横に、のらりくらい追いついて、
不壊は何か期待しているその目を、身体が柔らかくてよかったな、などと言って見ない振りをした。
するりと抜けた、子供の隣。
口を尖らせて、怒り出すかと思えば、三志郎は何も言わずに付いてきた。
舗装もされていない山道を抜ければ、やがて大きな湖が姿を現した。
ギラギラと輝く太陽が、これまた綺麗な湖面を、キラキラと輝かせている。
いい加減うんざりしていると、三志郎の小さな手が、不壊のコートを引っ張った。
声をかければ済むことなのに、いつも触れてくる。
たまに、肌に直接感じる子供の熱が、不壊はあまり好きではなかった。

「なァ不壊ー、お前なんか具合わりいの?」

見下ろせば、大きな琥珀色の両目が、不安そうな色を浮かべてこちらを見ている。
いい天気の、美しい景色の中、可愛いそんな反応が、どうしようもなく鬱陶しい。

「・・・オレが元気いっぱいなことなんザ、もともとありゃしネェだろ」

皮肉っぽい言い方をすれば、三志郎は一瞬顔をしかめて、それからようやくコートから手を離した。

「まぁ、元気いっぱいな不壊は、どっちかっつーと気持ちわりーけどな」
「だろ?だから気にすんな。兄ちゃん」

ひらひら手を振って、話を終らせる。
この素直な子供の、素直でまっすぐな優しさが、素直に可愛いと思えなくなったのは、いつからだったか。
あの日、子供を見つけたとき、自分のパートナーはこいつしかいないと思った。
それほど強く惹かれたというのに、今のこの有様は、何だ。

「なァ不壊、湖行ってもいい?」

またコートの裾を引っ張って、三志郎がお伺いを立てるように、上目遣いで覗き込んでくる。

「駄目だっつっても行くんだろ。いちいち無駄な確認いらねぇよ」

冷たく目をそらしても、三志郎はぱっと顔を輝かせてそのまま走り去っていく。
何が楽しいのか、大きな口をあけて笑う。
その笑顔は、忌々しい太陽よりも鬱陶しい湖よりも、よっぽど輝いて見えた。

「なんだっつーのかねぇ、まったく・・・」

ため息混じりに呟いて、力なくその場にしゃがみこんだ。
視点の沈んだ世界は、さっきよりも鮮明に子供を捉え、やがてそれしか見えなくなる。
何かを叫びながら、子供が手を振っている。
振り返してもやらずに、膝の上に頬杖を付いて、不壊はにやりと笑う。
それだけで満足した子供は、そのままスニーカーを脱ぎ捨てて、ざぶざぶと湖に入って行ってしまった。
怪我でもされたら、『げぇむ』に支障をきたす。
ふっとそんな言葉が脳裏をよぎったが、不壊はそのまま動かなかった。
心の底で、自分ですら気付かないほど無意識に、呟いていた。

このまま終ってしまえば楽なのに。







理解が、出来ないのだ。







腹の中に重く溜まっていく不確かなものが、身体を重くする。
ふと立ち止まって振り向けば、だいぶ遠くなった山林の終わりに、長いコートの男がしゃがみこんでいる。
そこだけ色の付いたような鮮やかな両目は、こちらを向いているが、多分自分を見ているわけではない。
ゆらりと空気が揺らぐような感覚。
足元がおぼつかない。
三志郎はいつもの笑顔を作って、不壊の名前を叫びながら両手をぶんぶん振り回した。
すると遠くの不壊は、ようやくこちらに気付いたようなぼんやりした目で、いつもの感情のない笑みを浮かべる。
三志郎は雑にスニーカーを脱ぎ捨て、湖に足を浸してみた。
驚くほどに透明度の高い湖の水は、気持ちのいい程度の冷たさで、キラキラと輝く水面は、故郷の美しい海を思わせた。

「・・・バカだな。大人のくせに」

もしかしたら彼は、自分の思う大人以上に、長く生きているのかもしれない。
それにしては、なんと成熟していない、不完全な存在なのだろう。
不壊から目を反らし、半分自棄になって、ざぶざぶと歩を進める。
くるぶしを過ぎた水位がふくらはぎを超し、やがて膝まで達する。
三志郎は膝丈のショートパンツの裾を形ばかり引っ張り上げ、そのままざぶざぶ進んだ。
服が水を吸い、身体がさらに重くなる。
不壊が何かを発する気配は、まだない。

「別に、心配されてぇ訳じゃネェけどさ」

無意識に声が出た。
思っていたより、不安だったらしい。
ぽろぽろと涙が滑り落ちていく。
自覚していたつもりだったが、本心は想像していたより、よほど傷ついていたらしい。

「失敗とか、言われると、たまんねーよな」

あの日、忍び込んだ運搬船から海に落ちて、もう駄目かと思ったとき、彼の赤い目を見つけた。
薄ら笑いを浮かべた、見るからに怪しげな風貌の男。
刺さるような視線とはまるで不釣合いな、穏やかな低い声。

『カッコいいネェ、兄ちゃん』

差し出された手を取ったことを、今まで後悔したことなど、一度もなかった。
それなのに、この重苦しさは一体なんなんだろう。

「お前が、逃げるからだ。不壊・・・」

お前が、目を反らすからだ。







理解できないなんて、言い訳をして。







小さな背中がどんどん遠ざかっていく。
それでも、まるで根が生えたように、両足は動かない。
もう少し進めば、そろそろ足が付かない深さに達するだろうが、あの運動神経だ、溺れることはないだろう。
泳ぐ気が、あればの話だが。

「不公平・・・ねぇ」

もうすっかり消えた歯形を、何となく思い出した。
一体何と何を比べて、公平でないなどと言う思考に至るのか。
こちらとあちらの世界は、天と地ほども違うというのに。
そうだ。
次元が、違うのだ。
何もかも解からない振りをして、その手を握れとでも言うのか。
馬鹿な。
そんなことをしてみろ。
もう取り返しが付かない。
何も見ず何も考えず、お互いだけを望んで、共に生きたところで、満たされるのは、どうせ一瞬のことだ。

「それがどれだけのリスクか・・・解かるほど、大人でもネェか」

半分諦めの言葉を呟いて、じっと視線だけ、三志郎の背中を追いかける。
歩調は先ほどに比べて、明らかに遅く不規則になってきていた。
ようやく立ち止まって、息を整える。
荒い息を吐く両肩が、幼くて、小さくて、たまらない。

「・・・兄ちゃん、」

重い気分で、小さく呼んだ。
多分その程度では届かない。
もっと大きな声で、呼ぶのを待っている。
連れ戻されるのを期待して、わざと危険なことをしているのだろう。
子供らしい、浅はかな我侭だ。

「いい加減に、してくれよ」

不公平は、お前だろう。
なぁ。






どうせ、置いて逝ってしまうくせに。






「不壊ー!!」

突然の大声に、驚いて不壊は顔を跳ね上げた。
遠くから、三志郎が呼んでいる。
思わず立ち上がりかけて、内心舌打ちをした。
三志郎は胸まで水につかりながら、いつもの顔で笑って両腕を振り回している。

「不壊ー!早く来いよ!!置いてっちゃうぞー!!」

そう叫びながら、ばしゃばしゃしぶきを上げる。
小さな水の粒が太陽の光を反射して、キラキラと、それはもう美しく輝いた。
三志郎は笑っていた。
弾けんばかりの笑顔で、両腕を振り回しながら、何度も不壊の名前を呼んでいる。
無意識に立ち上がっていた不壊は、苛々と煮えたぎる腹の中身を、何とか沈めようと深く息をついた。
長く深く、吐き出してしまえば、ほんの少しだけ、身体が軽くなったような気がした。

「だぁれが、そんなトコ行くってんだ馬鹿。さっさと戻って来な、兄ちゃん」

いつもよりほんの少し大きな声で、呼びかけた。
きっと言葉は届いていないだろう。
けれど、子供は理解したようだ。
手招く不壊の白い手袋に、気が滅入るほど嬉しそうに、笑った。

「何が楽しいんだか・・・」

失敗した。
胸中で舌打ちしながら、犬のように大急ぎでこちらに向かってくる三志郎に、のんびり近づいていく。
やかましく走ってくる足音が、もう少し近づいたら、あの小さな頭を捕まえて、くっついてくるのを阻止してやろう。
そうすればきっと、不満そうに顔をゆがめて、悪態をついてくるだろうから、それ以上の皮肉を言ってやる。
言い訳も出来ないぐらい、メタメタに、論破してやる。

「お前の所為だ」

お前がこんな不快な気分にさせるから、悪いんだ。
水しぶきを撒き散らして、三志郎が駆けてくる。
不壊の大きな手が、その頭を捕らえるまで、あと少し。







君が好きだなんて思っても、絶対に認めない。






2011/03/21_妖逆門(君が好きだなんて思っても、絶対に認めない)

不壊は多分、色々頭が回るから、ぐずぐず煮え切らないと思う。
でも三志郎は単純だから、その理由を理解できない。
こいつらはもうすれ違いながらお互いに我慢できなくなるまで睨み合っていればいい。

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