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衝動的に、噛んだ。 
むき出しになった細い鎖骨に、小さな歯型が浮き上がり、微かに血がにじんだ。 
銀髪の男は一瞬驚いた顔をしたが、いつもの感情の読めない薄ら笑いを浮かべて、どうした、と首を傾げて見せた。 
白い手袋が、傷口を確かめるようにすべる。 
あの程度、すぐに消えてしまうんだろう。 
 
「不公平だ」 
 
無意識に声が出た。 
こっちはこんな傷よりよっぽど深く、心をえぐられているのに。 
赤い両目が静かにこちらを向く。 
真紅の世界に、涙を浮かべた幼い自分が写っていた。 
情けないと思ったが、どうしても反らせない。 
じっと睨みつける。 
男はずっと口元を歪ませたまま、ゆっくりと、静かに、 
 
言った。 
 
 
「失敗だなァ。・・・お前なんか、選らばきゃよかった」 
 
 
 
 
 
 
 
うんざりするくらい、晴れていた。 
妖ギャモンが生み出したこの逆日本は、何故か嫌味なくらいに長閑な晴れた日が多い。 
元々、生活のほとんどを人間の影の中で過ごす不壊にとって、この晴天は正に嫌がらせでしかなかった。 
 
「・・・こりゃァ明らかに、個魔に対するイジメだよな」 
 
白い手袋をした大きな手で、顔の前にひさしを作る。 
気持ち視力の回復した世界には、空を照らすお天道様よりもっとうんざりするぐらい明るい顔で、相棒の少年が笑っている。 
 
「何やってんだよ不壊ー!置いてっちゃうぞー!!」 
 
子供の幼い両手を振り回して、必要以上の大音響で叫ぶ。 
三志郎は確かに可愛いが、こんな日には、少しだけ、ほんの少しだけ、マジで面倒臭い。 
 
「あーあー、怪我しネェ程度になら、好きにやってくれ。オレァオレのペースで頑張るからよ」 
「不壊が頑張ってるとこなんて、見たことねぇー!」 
 
大きな口をあけて、ぎゃははと爆笑する。 
何がそこまで面白かったのか、何となくイラッとしながら、嫌味の一つでも言ってやろうと口を開きかけたが、止めた。 
 
「兄ちゃん、前見て歩け」 
 
不壊が言うが早いか、ほとんど同時に三志郎が足元の小石にけ躓いて、派手に転んだ。 
勢いが付きすげて、笑ってしまうほど綺麗に、ぐるんと後転までかます。 
 
「いってー!こけたー!!」 
 
地面に打ったらしい身体をさすりながら、賑やかに立ち上がる三志郎の横に、のらりくらい追いついて、 
不壊は何か期待しているその目を、身体が柔らかくてよかったな、などと言って見ない振りをした。 
するりと抜けた、子供の隣。 
口を尖らせて、怒り出すかと思えば、三志郎は何も言わずに付いてきた。 
舗装もされていない山道を抜ければ、やがて大きな湖が姿を現した。 
ギラギラと輝く太陽が、これまた綺麗な湖面を、キラキラと輝かせている。 
いい加減うんざりしていると、三志郎の小さな手が、不壊のコートを引っ張った。 
声をかければ済むことなのに、いつも触れてくる。 
たまに、肌に直接感じる子供の熱が、不壊はあまり好きではなかった。 
 
「なァ不壊ー、お前なんか具合わりいの?」 
 
見下ろせば、大きな琥珀色の両目が、不安そうな色を浮かべてこちらを見ている。 
いい天気の、美しい景色の中、可愛いそんな反応が、どうしようもなく鬱陶しい。 
 
「・・・オレが元気いっぱいなことなんザ、もともとありゃしネェだろ」 
 
皮肉っぽい言い方をすれば、三志郎は一瞬顔をしかめて、それからようやくコートから手を離した。 
 
「まぁ、元気いっぱいな不壊は、どっちかっつーと気持ちわりーけどな」 
「だろ?だから気にすんな。兄ちゃん」 
 
ひらひら手を振って、話を終らせる。 
この素直な子供の、素直でまっすぐな優しさが、素直に可愛いと思えなくなったのは、いつからだったか。 
あの日、子供を見つけたとき、自分のパートナーはこいつしかいないと思った。 
それほど強く惹かれたというのに、今のこの有様は、何だ。 
 
「なァ不壊、湖行ってもいい?」 
 
またコートの裾を引っ張って、三志郎がお伺いを立てるように、上目遣いで覗き込んでくる。 
 
「駄目だっつっても行くんだろ。いちいち無駄な確認いらねぇよ」 
 
冷たく目をそらしても、三志郎はぱっと顔を輝かせてそのまま走り去っていく。 
何が楽しいのか、大きな口をあけて笑う。 
その笑顔は、忌々しい太陽よりも鬱陶しい湖よりも、よっぽど輝いて見えた。 
 
「なんだっつーのかねぇ、まったく・・・」 
 
ため息混じりに呟いて、力なくその場にしゃがみこんだ。 
視点の沈んだ世界は、さっきよりも鮮明に子供を捉え、やがてそれしか見えなくなる。 
何かを叫びながら、子供が手を振っている。 
振り返してもやらずに、膝の上に頬杖を付いて、不壊はにやりと笑う。 
それだけで満足した子供は、そのままスニーカーを脱ぎ捨てて、ざぶざぶと湖に入って行ってしまった。 
怪我でもされたら、『げぇむ』に支障をきたす。 
ふっとそんな言葉が脳裏をよぎったが、不壊はそのまま動かなかった。 
心の底で、自分ですら気付かないほど無意識に、呟いていた。 
 
このまま終ってしまえば楽なのに。 
 
 
 
 
 
 
 
理解が、出来ないのだ。 
 
 
 
 
 
 
 
腹の中に重く溜まっていく不確かなものが、身体を重くする。 
ふと立ち止まって振り向けば、だいぶ遠くなった山林の終わりに、長いコートの男がしゃがみこんでいる。 
そこだけ色の付いたような鮮やかな両目は、こちらを向いているが、多分自分を見ているわけではない。 
ゆらりと空気が揺らぐような感覚。 
足元がおぼつかない。 
三志郎はいつもの笑顔を作って、不壊の名前を叫びながら両手をぶんぶん振り回した。 
すると遠くの不壊は、ようやくこちらに気付いたようなぼんやりした目で、いつもの感情のない笑みを浮かべる。 
三志郎は雑にスニーカーを脱ぎ捨て、湖に足を浸してみた。 
驚くほどに透明度の高い湖の水は、気持ちのいい程度の冷たさで、キラキラと輝く水面は、故郷の美しい海を思わせた。 
 
「・・・バカだな。大人のくせに」 
 
もしかしたら彼は、自分の思う大人以上に、長く生きているのかもしれない。 
それにしては、なんと成熟していない、不完全な存在なのだろう。 
不壊から目を反らし、半分自棄になって、ざぶざぶと歩を進める。 
くるぶしを過ぎた水位がふくらはぎを超し、やがて膝まで達する。 
三志郎は膝丈のショートパンツの裾を形ばかり引っ張り上げ、そのままざぶざぶ進んだ。 
服が水を吸い、身体がさらに重くなる。 
不壊が何かを発する気配は、まだない。 
 
「別に、心配されてぇ訳じゃネェけどさ」 
 
無意識に声が出た。 
思っていたより、不安だったらしい。 
ぽろぽろと涙が滑り落ちていく。 
自覚していたつもりだったが、本心は想像していたより、よほど傷ついていたらしい。 
 
「失敗とか、言われると、たまんねーよな」 
 
あの日、忍び込んだ運搬船から海に落ちて、もう駄目かと思ったとき、彼の赤い目を見つけた。 
薄ら笑いを浮かべた、見るからに怪しげな風貌の男。 
刺さるような視線とはまるで不釣合いな、穏やかな低い声。 
 
『カッコいいネェ、兄ちゃん』 
 
差し出された手を取ったことを、今まで後悔したことなど、一度もなかった。 
それなのに、この重苦しさは一体なんなんだろう。 
 
「お前が、逃げるからだ。不壊・・・」 
 
お前が、目を反らすからだ。 
 
 
 
 
 
 
 
理解できないなんて、言い訳をして。 
 
 
 
 
 
 
 
小さな背中がどんどん遠ざかっていく。 
それでも、まるで根が生えたように、両足は動かない。 
もう少し進めば、そろそろ足が付かない深さに達するだろうが、あの運動神経だ、溺れることはないだろう。 
泳ぐ気が、あればの話だが。 
 
「不公平・・・ねぇ」 
 
もうすっかり消えた歯形を、何となく思い出した。 
一体何と何を比べて、公平でないなどと言う思考に至るのか。 
こちらとあちらの世界は、天と地ほども違うというのに。 
そうだ。 
次元が、違うのだ。 
何もかも解からない振りをして、その手を握れとでも言うのか。 
馬鹿な。 
そんなことをしてみろ。 
もう取り返しが付かない。 
何も見ず何も考えず、お互いだけを望んで、共に生きたところで、満たされるのは、どうせ一瞬のことだ。 
 
「それがどれだけのリスクか・・・解かるほど、大人でもネェか」 
 
半分諦めの言葉を呟いて、じっと視線だけ、三志郎の背中を追いかける。 
歩調は先ほどに比べて、明らかに遅く不規則になってきていた。 
ようやく立ち止まって、息を整える。 
荒い息を吐く両肩が、幼くて、小さくて、たまらない。 
 
「・・・兄ちゃん、」 
 
重い気分で、小さく呼んだ。 
多分その程度では届かない。 
もっと大きな声で、呼ぶのを待っている。 
連れ戻されるのを期待して、わざと危険なことをしているのだろう。 
子供らしい、浅はかな我侭だ。 
 
「いい加減に、してくれよ」 
 
不公平は、お前だろう。 
なぁ。 
 
 
 
 
 
 
どうせ、置いて逝ってしまうくせに。 
 
 
 
 
 
 
「不壊ー!!」 
 
突然の大声に、驚いて不壊は顔を跳ね上げた。 
遠くから、三志郎が呼んでいる。 
思わず立ち上がりかけて、内心舌打ちをした。 
三志郎は胸まで水につかりながら、いつもの顔で笑って両腕を振り回している。 
 
「不壊ー!早く来いよ!!置いてっちゃうぞー!!」 
 
そう叫びながら、ばしゃばしゃしぶきを上げる。 
小さな水の粒が太陽の光を反射して、キラキラと、それはもう美しく輝いた。 
三志郎は笑っていた。 
弾けんばかりの笑顔で、両腕を振り回しながら、何度も不壊の名前を呼んでいる。 
無意識に立ち上がっていた不壊は、苛々と煮えたぎる腹の中身を、何とか沈めようと深く息をついた。 
長く深く、吐き出してしまえば、ほんの少しだけ、身体が軽くなったような気がした。 
 
「だぁれが、そんなトコ行くってんだ馬鹿。さっさと戻って来な、兄ちゃん」 
 
いつもよりほんの少し大きな声で、呼びかけた。 
きっと言葉は届いていないだろう。 
けれど、子供は理解したようだ。 
手招く不壊の白い手袋に、気が滅入るほど嬉しそうに、笑った。 
 
「何が楽しいんだか・・・」 
 
失敗した。 
胸中で舌打ちしながら、犬のように大急ぎでこちらに向かってくる三志郎に、のんびり近づいていく。 
やかましく走ってくる足音が、もう少し近づいたら、あの小さな頭を捕まえて、くっついてくるのを阻止してやろう。 
そうすればきっと、不満そうに顔をゆがめて、悪態をついてくるだろうから、それ以上の皮肉を言ってやる。 
言い訳も出来ないぐらい、メタメタに、論破してやる。 
 
「お前の所為だ」 
 
お前がこんな不快な気分にさせるから、悪いんだ。 
水しぶきを撒き散らして、三志郎が駆けてくる。 
不壊の大きな手が、その頭を捕らえるまで、あと少し。 
 
 
 
 
 
 
 
君が好きだなんて思っても、絶対に認めない。
 
 
 
 
 
 
 
 
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