|  
 
 
人が息すら出来ない高い空に、金色の魔物はぼんやりと浮かんでいた。 
ごうごうと風が吹き抜けて行く。 
金色の毛が舞い上がり、視界を塞いだ。 
ゆっくり顎を反らせて、遥か彼方の地上へ視線を投げた獣は、鼻にしわを寄せ低い声で呟いた。 
 
「嫌な・・・・、風が吹いて来やがった」
 
 
 
 
 
 
 
風 
 
 
 
 
 
 
 
ふわりと身を翻し、重力に引かれるまま落下を始める。 
遠くの島国が町並みに変わり、そこに立つ子供の顔が鮮明になるころ、ようやく姿を消した獣は法則に逆らい、ぴたりとその場に静止した。 
金色の毛が微か、地面を撫でた。 
逆さまの視界に写る子供の顔は、今朝同様、曇ったままだった。 
 
「何だよ、カッテにどっか行くなよ」 
 
太い眉をしかめて、少年が口を尖らせる。 
 
「なぁんでこのわしが、ニンゲンごときに了解を得にゃならんのだ。鬱陶しい」 
「・・・心配、するだろ」 
 
いつもなら何か理不尽な理由をまくしたてて殴りかかってくるこの子供も、今日ばかりはおとなしい。 
妖怪はなんだか調子が狂って、軽く舌打ちをしただけで、何も言わなかった。 
黙ったまま眺めていると、逆さまの世界で子供は静かに目を伏せた。 
 
「今日は親父も忙しいんだ。あんまり面倒かけないでくれよ」 
 
目の前の子供以上に、面倒なことなどあるだろうか。 
妖怪はもはや悪態をつくことも忘れて呆れかえってしまった。 
そんな妖怪のことなどお構い無しに、ご大層に溜め息などついて、子供は住みかの寺に戻って行く。 
妖怪はふわりと正位置に戻り、少年のいつもより小さな背を追った。 
 
「・・・とら、あのなぁ」 
 
前を向いたまま、子どもが話し出す。 
止めるのも面倒なので、妖怪は聞き流すことにした。 
 
「死んじまった檀家のじいちゃんな、けっこうオレのこと可愛がってくれててさ・・・」 
 
カラカラと軽い音を立てながら、扉が開く。 
ニンゲンが神仏と崇める不細工なデカイかたまりが、薄暗い部屋の奥に鎮座している。 
不快な香の匂いが立ち込める部屋には、さっきまでそこに居たであろう子供の父親の気配が、微かに残っていた。 
 
「じいちゃんの家には柿の木があって、それに生る柿がまた、スッゲー渋いの」 
 
いつの間にか子供の話が進んでいる。 
耳に入らなかった部分を聞きなおすこともなく、妖怪は子供の喋るままにさせた。 
 
興味など、さらさらない。 
老いぼれがそのちっぽけな人生を終えたからとて、なんの感慨が産まれよう。 
まして、知りすらしないのだ。 
それとこれとの思い出話などに、真剣になれと言う方が間違いだ。 
 
「でも・・・大往生だよなぁ・・・」 
 
よく磨かれた古い木の床に座り込んで、ぽつりと少年が言った。 
妖怪は静かにその横顔を眺め、そうかよ、と一言だけ返してやった。 
 
高い空で聞いた風の音が、ゆっくりと近付いてくる。 
 
この鈍感な子供が、それを感じとることはないだろう。 
けれど、これ以上近付けば、あの忌々しい槍がキィキィとわめき出すに違いない。 
 
考えなくとも見える、面倒な状況が脳裏に浮かぶ。 
妖怪は溜め息を付いて、開いたままの扉の向こうに視線を投げた。 
 
多分、この少年にとっては非常に残念なことなのだろうが、老人の死は、自然の説理が呼んだものではない。 
広い範囲のものをかぎとることの出来る妖怪が、いち早く察知した風。 
その中心にあるのは、名も知らない、老い先短いニンゲンの命などを糧に生きているような、セコイ妖怪だ。 
 
「とら、あのなぁ」 
 
少年が呟いた。 
久しぶりにその大きな両目がこちらを向いた。 
 
「オメーにゃ笑われるかもしんねぇけど、昨日じいちゃんが夢枕に立ったんだ」 
 
寂しそうな、悲しそうな顔で無理矢理笑う。 
そのあとの子供の話は覚えていない。 
ただその表情に、確信した。 
真実を知れば、こいつはなりふり構わずあの妖怪を退治に行くだろう。 
敗けることはない。 
力の差は明白だ。 
 
けれど、 
 
妖怪の鼻にしわが寄る。 
腹の中に、原因不明の重苦しさを感じた。 
嫌だ、と直感的に思った。 
理由を探る気にもなれず、妖怪は不機嫌そうに目を閉じた。 
 
今夜はきっと、月は出ない。 
 
薄暗い嵐を呼び寄せながら、妖怪はひたすら腹の不快感に耐え、子供の取り留めのない話を聞き流していた。 
 
 
 
 
その金色が姿を消した途端、真っ黒な雲と共に、嵐がやってきた。 
 
雷鳴と、轟音。 
そう遠くはない場所で、一度きり瞬いて、すぐ消えた。 
 
人でなく、妖怪でもない槍が、鳴り出したのは多分、それと同時。 
人でありながら、妖の顔を持つ少年が、それを知ったのは、全てが終った、一瞬、後。 
 
 
 
 
冷たい雨が降っていた。 
小さな窓枠の向こう、狭苦しい部屋の中で、痩せた少年がうなだれている。 
しばらく眺めていると、ようやく気付いたのが、涙に濡れた顔がこちらを向いた。 
慌てて窓を開けた子供は、夜風の冷たさすら感じない様子で、身を乗り出してきた。 
 
「とら・・・妖を、殺したのか」 
 
返り血は、とっくに雨に流されているはずだ。 
しかし、まとわりつく気配を、完全に消し去ることは出来ていない。 
いくら阿呆といえ、しばらく戦の場に身をおいたこの子供になら、解かるだろう。 
今更、隠したところで意味もない。 
 
「別に・・・、チンケな妖怪だ。ちぃと撫でてやっただけで跡形もなくなりやがった」 
 
雨が少年の頬を落ちていく。 
涙も混じって、実に残念な出来栄えだった。 
 
「・・・そいつが、じいちゃんを殺したんだな」 
 
小さな唇から、消え入りそうな細い声が溢れた。 
 
忌々しい。 
 
妖怪の表情が、一段と険しいものになる。 
 
どうしてこうも、邪魔ばかりする。 
 
部屋の片隅で、槍がキィキィと哭いている。 
既に、吹き付ける風に先ほどの妖怪の気配は含まれていない。 
だとしたら、槍が喚いているのは、いまだ殺気を消し切れないで居る、自分に向けてなのだろう。 
腹の中に溜まった不快感の元凶は、あのチンケな獣だと思っていた。 
だから、いつもなら歯牙にもかけないはずのあんな小物を、相手してやったというのに。 
元凶であるはずの妖怪を跡形もなく消し去っても、どうしてだか、重苦しい不快感は消えなかった。 
 
少年の細い腕が、伸びてきた。 
激しさを増した雨が、叩きつけるようにして少年の皮膚の上を跳ねる。 
ほとんど肉のついていない細い腕。 
しかしその瑞々しい肌は、妖怪の食欲を刺激するには十分だった。 
怒気と殺気と食欲と、色んな感情がわきあがる。 
いっそその腕を引いて、喰い殺してしまおうかとも思った。 
 
そうすれば、少しはこの不快感で満ちた腹を、潤すかもしれない。 
 
成長しきっていない子供の指が、金色の毛を絡めるようにして、撫でつけた。 
大きな両目が、涙でぬれている。 
 
その深い色に、思わず息がつまった。 
途端、腹の中の熱が、急激に冷えていった。 
 
妖怪は軽く溜め息を付いてあと少し、少年に近付いてやった。 
首筋に埋められた、子供の頬が、熱い。 
その熱を感じ取りながら、妖怪は非常に不本意な、己の真意に行きあたった。 
 
腹に湧いた、不快感の、その元凶。 
見たくなかったのだ、単純に。 
 
この子供が、泣くさまを。 
 
「全く、くだらねぇなぁ・・・」 
 
せっかくお前の耳に届く前に、風を止めてやったというのに。 
冷たい雨に濡れながら、妖怪はそっと目を伏せた。 
 
 
 
 
 
 
 
それでも、お前は泣くのか。 
 
 
 
 
 
 
       |