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例えば奇跡が起きるとしたら、こんな風に。 
 
 
 
暗い土の中で、どれほど眠っていたのだろう。 
久しく目にした外の世界は、五百年ぶりにみたあの日の奇跡ほどでないにしろ、ずいぶん様変わりしたように感じた。 
空気のにおいも、建物の色も、そして、人の顔も。 
遠い記憶をたどって、ようやく探し当てた懐かしい寺には、懐かしい顔は既になかった。 
ふわりと地面に降り立ち、金色の妖はボソリと呟く。 
だいたい予想はついていた。 
それでも、淡い期待は捨てられなかった。 
 
「なんでぇ…もう、おっ死んじまいやがったのか…」 
 
人の寿命は、長くて百年。 
だがその歳月は、妖が再生するには短すぎる。 
あの日、形すらないものに溶けて、思考など残っているはずもないのに、この中で繰り返し流れ続けていた。 
明るい日の下で、それよりいっそう明るい顔で笑う子供。 
嬉しそうに子供は、いつか己で名付けた、あの名前を呼ぶのだ。 
寺の門から、見知らぬ人間が出てくる。 
面影は、まるでない。 
きっと、血を分けた一族の者ですらないのだろう。 
よく見れば、人間用の小さな出入り口にある、確か、表札、というものに書かれている文字も違う。 
 
「けっ…面白くもねぇ…」 
 
ずっと暗い土の中で、待ち続けたのは、自分だけだったのか。 
あの声を、あの笑顔を、触れる、柔らかな温もりを。 
黙ったまましばらく寺を眺めていた妖は、つまらなそうに、ふん、と鼻を鳴らした。 
目的のものがないならば、もう此処に用はない。 
しかし、再び空へ飛び上がろうとしたその視界の端に、何がかひっかかった。 
 
「…ん?」 
 
鼻にしわを寄せて、目を凝らす。 
金色の長い毛が、日の光に反射して、視界を邪魔する。 
妖は苛立たし気に毛を掻き上げて、その一点に意識を集中させた。 
気を付けていないと、見落としてしまいそうなほど小さなそれは、深い茶色の毛並の、仔猫だった。 
どうしてそんなものが気になったのか分からないが、妖は飛び上がるのをやめ、まじまじと仔猫の顔をのぞきこんだ。 
どうやらこの猫は、姿を消しているはずの妖が見えるらしい。 
じぃっ、とその大きな両目でこちらを睨みつけている仔猫は、目の前に迫る妖にたじろぐ様子もない。 
妖はなんだか、挑むような仔猫の視線が面白くなくなって、ぴんっとひとさし指で仔猫を弾き飛ばした。 
 
「に゛ッ」 
 
しかし、小さな抗議の声をあげた仔猫は、驚くことに、とっさに妖の指に喰らい付いてきた。 
ぶらん、と指先に垂れ下がる仔猫の姿に、さすがに妖も面食らう。 
それからようやく、今まで感じていた違和感の正体に気付き、はっとした。 
この目には、確かに見覚えがある。 
知っている者が見れば、口を揃えてその名前を呼ぶだろう。 
挑むような、真っ直ぐな目。 
そのまま、性格を表したような、曇りのない目。 
 
「ほーんと、…頭わりぃなぁ…オメェ」 
 
ふと、妖の頬が緩む。 
大きな掌に乗せてやると、仔猫は小さな頭を妖の指に擦り付けてきた。 
あの時とは、明らかに違う体温。 
重みも、感触も、まるで違うのに、分かる。 
間違いない。 
間違えるはずがない。 
 
「よりによって、なんだってこんな弱っちいモンになっちまうかね」 
 
言いながら、指の腹で仔猫の額をぐりぐりと撫でつける。 
仔猫は、一瞬不機嫌そうにしながらも、幸せそうにゴロゴロと喉を鳴らした。 
何度も輪廻を繰り返して移ろい行くものが人ならば、妖は常に止まり続けるもの。 
それは、決して交わることのない二本の線のようなものだった。 
けれどそれは微かに傾いて、いつか触れ合う奇跡が訪れるのかもしれない。 
こんな狭い範囲で、この魂は、何度繰り返してきたのだろう。 
与えられた生を、いくつ費やして、この仔猫は自分に再会できたのか。 
 
「猫なんてすぐ死んじまうじゃねぇか。そうしたらわしは、こんなだだっぴろい世界から、まぁたオメェを探さなきゃなんねぇ」 
 
掌の上で、仔猫が妖の言葉に、満足そうに目を細める。 
妖は、ふわりと飛び上がり、鋭い牙をむいて、笑った。 
 
「しょーがねぇな!乗り掛かった船だ。飽きるまで付き合ってやらぁ!」 
 
二本の直線が、遠いところで交わり会う。 
奇跡が起きる。 
 
きっと、こんな風に。 
 
 
 
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