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白い湯気が、浴室を満たしていた。 
何気無く湯舟に手を浸した三志郎は、予想通りと思いながらも、顔を歪めた。 
 
「なんだよこれ、ほとんど水じゃねぇか」 
 
どうやらこの猫は、飲み物だけでなく、つかる湯すら、熱いものは苦手らしい。 
 
 
 
 
イトシノ 
 
 
 
 
「親戚の人と一緒に住んでるんだって?どんな人?」 
 
最近転入したばかりの学校で、はじめて出来た友達は三枝くんといった。 
なぜかクラスメイトからは、ロンドンと呼ばれているので、三志郎もそれにならって、あだ名で呼んでいる。 
 
「違うよ、ロンドン。不壊は親戚じゃなくて、じいちゃんの知り合い。昔になんか世話し
てやったんだって」 
「へぇ」 
納得したか怪しい顔で、ロンドンが相槌をうつ。 
どうやら都会では、いくら昔の知人とはいえ、他人に部屋を借りるというのは、あまり一般的ではないらしい。 
不思議そうにしているロンドンの隣で、三志郎はぼんやりと同居人の姿を思い浮かべてみた。 
背が高くて、背のわりに痩せていて、髪が長くて、ついでに手と足と指もやたら長い。 
低い声は、大抵無愛想で言葉が足りないが、たまに優しくて、綺麗な音をしている。 
黒い服が好きらしく、いつも喪中のようだが、彼にはよく似合う色だと思う。 
好き嫌いが激しく、呆れるくらいの猫舌で、嫌いなものや熱い食事をだすと、箸すらつけない。 
やたら暑がりで、気温が27度を超すと、活動を止める。 
睡眠は必ず8時間以上。それに満たない場合は、一日イライラしているか、何かにつけては文句を言って、甘えてくる。 
そこまで考えて、無意識に三志郎は溜め息をついていた。 
物凄いわがままだ。大人として、どうかと思う。 
 
「…猫みてぇ」 
「は?」 
「不壊。一緒に住んでるヤツ。無愛想で、面倒くさがりで…なんか、猫みてぇなヤツだ
よ」 
 
眉間にシワをつくりながら苦々しい声を出す三志郎。 
けれどその顔を見て、何だか幸せそうだな、と三枝くんは思った。 
 
 
 
 
三志郎と一緒に暮らしている、気まぐれな猫の名前は、不壊。 
綺麗な銀髪と真っ赤な目をしたかわいい猫。 
 
 
 
 
実際、銀髪というものが実在していると知ったのは、不壊に出会ってからなのだが。 
水面にひたひたと広がる長いそれを眺めながら、素直に綺麗だなぁと思う。 
いつも色の悪い頬が、微かに赤く染まっていた。 
ぬるい湯につかりながら、浴槽の縁にしなだれていた不壊は、そんな三志郎の様子に、にやりと口角を上げた。 
 
「いつまで見てんだ、にいちゃん」 
 
すけべだねぇ、と笑う。 
すると目の前の子供は、はっと目を見開いて、思った通りの反応をする。 
 
「バッ…!誰が不壊の裸なんか見たがるかよ!」 
「じゃァ何見てたんだィ?」 
「…っ!」 
 
探るような目で見上げてやれば、三志郎は真っ赤な顔で、閉口する。 
自分の発する言葉ひとつひとつに、いちいち表情を変える三志郎は、本当に見ていて飽きない。 
もーっとか何とか声をあげて、いきなり三志郎がシャンプーボトルを投げつけてきた。 
驚きはしたものの、冷静にかわした不壊に、更に三志郎は顔を真っ赤にして、大声を出す。 
 
「シャンプーぐらい確認して入れ!アホ不壊!!」 
 
捨て台詞を残して、三志郎は逃げるように浴室を出ていってしまった。 
勢いよく閉められた扉に顔をしかめたあと、本当に飽きないなぁと不壊は湯に沈み込みながら、笑った。 
 
 
 
 
風呂から上がってみると、三志郎がベッドにも入らず、大口を開けて寝こけていた。 
その無防備な寝顔に、やれやれと溜め息がでる。 
年のわりに成長が遅れている細いからだを運んでやりながら、世話やきが当たり前になってきているところに、また溜め息がでた。 
寝室に三志郎を転がしていると、ベッドサイドに置かれた携帯がチカチカ光っているのが目に入った。 
着信だ。 
音も振動も嫌いなので、不壊の携帯は常にマナーモードの上に、バイブが解除されていて、光でしか着信が認識できない。 
だから、折り返しすらしない不壊に、電話が繋がるのは非常にまれだった。 
 
「不壊?久しぶりね」 
 
電話口から、聞き慣れた声がする。 
学生時代からの付き合いの友人は、ウタといった。 
最近恋人が出来たとかで、暇さえあればノロケてくる。 
 
「お前、ノロケるなら他当たれよ」 
「仕方ないじゃない。私、友達アンタぐらいしか居ないんだもの」 
「…そりゃ、ご愁傷さまだな」 
 
三志郎をベッドの中央に押しやって、自分は端に腰を下ろす。 
背後で三志郎が、むにゃむにゃと寝言を言っているのが気になって、ついついその小さな頭を撫でてやったりしてしまう。 
布団まで被せてやっている自分のかいがいしさに、物凄く脱力した。 
 
「そう言えばアンタ、親戚の子、預かってんだって?どんな子?」 
 
一通りのノロケを聞き流していると、思い出したように今更、ウタが話題を振ってきた。 
 
「親戚じゃねぇよ。昔世話になったヤツの孫」 
「へぇ?」 
 
ウタが少し不思議そうな声を出す。 
説明が面倒で、あーとか何とか、適当に声を出して、不壊はぼんやりと三志郎の寝顔を眺めた。 
年のわりに小柄で、お子様丸出しの丸いほっぺたに、丸くて黒目勝ちな目をしている。 
短い髪はピンピン跳ねて、性格そのままに活発。 
躾のためか、やたら家事をこなすのが達者で、味覚がどちらかと言うと老けている。 
そのくせ、甘いものには目がないらしく、ケーキだのアイスだのを与えれば、どれだけ機嫌が悪かろうと、ころっと笑顔になる。 
単純で、すぐ笑うしすぐ泣いて、怒る。 
一日中何が楽しいのか、自分の回りをちょろちょろしては、飽きることなく、一生懸命何か、とりとめのない話をしている。 
そこまで考えて、無意識に不壊は溜め息をついていた。 
いつの間にか、生活のほとんどを三志郎に支配されている。 
疲れる。子供のテンションにはいい加減、着いて行かれない。 
 
「…犬みてぇ」 
「は?」 
「三志郎。一緒に住んでるヤツ。キャンキャンうるさくて…なんだか、犬みたいだねェ」 
 
ほとんど独り言の様な声で言って、不壊は喉で笑う。 
その声を聞きながら、やはりノロケは聞くものではなく、言うものだな、とウタは再認識した。 
 
 
 
 
不壊の家に、ある日突然、預けられることになった子犬の名前は、三志郎。 
青みがかった黒い毛と、蜂蜜色の目をしたかわいい子犬。 
 
 
 
 
夜中に目を覚ますと、隣に不壊がいた。 
もともと男の独り暮らしのための狭いマンションに、寝床はひとつしかない。 
大抵は三志郎がリビングに追いやられ、マットと毛布だけの寂しい夜を強いられるのだが、今夜の不壊は機嫌がいいらしい。 
もぞもぞと体勢を変える三志郎を招くように、不壊が片腕を上げる。 
向かい合わせになったところで、背中に腕を回され、三志郎は満足そうに目を細めた。 
 
「もう夜中だぜ、にいちゃん…早く寝ちまいな」 
「不壊だって…こんな時間に起きてるなんて珍しいな。いつもなら、オレより早く寝ちまうのに…」 
「寝床に異物が紛れ込んでてねぇ…安心して寝れねぇんだよ」 
 
三志郎の背中を無意識に優しく叩きながら、目をつむったままの不壊が言う。 
言葉とは裏腹な、やすらかな顔を、ぼんやり見上げながら、三志郎は形ばかり、口を尖らせる。 
 
「なんだよ、ここまで運んだの、不壊だろ?」 
「いいや、にいちゃんが、かってに転がり込んで来たんだぜ」 
「よく言うぜ。オレ、そこまで寝相悪くねぇよ」 
 
くく、と薄く目を開けて不壊が笑う。 
暗がりの中でもよく分かる三志郎の大きな目が、こちらを見上げていた。 
 
「おやすみ」 
 
子犬が身を丸めるようにして、しがみついてくる。 
猫はその額に軽くすりよって、目を閉じた。 
 
 
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